かたつむりランデヴー『終着駅は始発駅』(前編)
2008年 07月 04日
はぁ、やっぱり来るんじゃなかった。
はぁ、やっぱりこんなとこ一人で来るもんじゃないよ。
神田の大衆居酒屋『赤ちょうちん』は、相変わらずサラリーマンの愚痴で活気づいていて、5席あるうち1席は空き瓶置き場と化している小狭いカウンターで、タケシは片肘をついていた。
隣の男は、これが毎日の楽しみなのだろうか。食べかけのホッケと飲みかけの生ビール。疲れと幸せの混じった顔で野球中継を見ている。
『梅雨入り宣言』を発表し終わった梅雨課は、一段落していた。
飲みに誘った絵美に「用事がある」と断られて、一人でやってきた『赤ちょうちん』だったが、タケシは早々につまらなくなっていた。
一度やってみたかった、大人になった気がしそうな『手酌のビール』も、実際やってみるとつまらないもので、コップの残りを一息で飲み干し、携帯をバタリと閉じて早々に店を出た。
20時前、程よい雨路地を、サラリーマン達が傘を上下に交わしながらすれ違ってゆく。
はぁ、つまらんなぁ。
友達を誘うにも遅すぎるし。
そう思うと増々つまらなくなってきたタケシだったが、行く当てもなく。
帰るか、と駅に向かおうとした。
「あーまーぎぃーーごーえーー…」
雨の間をすり抜けてきた、かすかな調子っぱずれなカラオケの音にタケシは足を止め、振り返った。
細い雨路地の奥に、アヤメ色に光る『終着駅』というスナックの看板がぼーっと浮かんでいる。
そのアヤメ色の看板は、まるで深海のチョウチンアンコウの光の様にうっとりと佇んでいて、気づけば、タケシは催眠術にかかった小魚のようにドアの前まで来ていた。
スナックか…。
学生の頃、アルバイト先の社長に連れられて1度行ったことがあったが、それは楽しくよい思い出だった。しかし、一人で入るとなるとなんだか不安なものである。
財布の中身を確認したタケシは「ちょっとだけ」と決めて、勇気を出して、そろりと『終着駅』のドアを引いた。
カランカラン…
「いらっ…しゃーい!」
チョウチンアンコウの口は閉じられた。

店内は薄暗く、カウンターの中にはママらしき年配の女性と、若いホステス。
カウンター席にはサラリーマン風の年配の男が2人、少し離れてそれぞれ座っていて。それらの視線は一斉にタケシに注がれた。
あぁ、やっぱり来るんじゃなかった。
閉じられたチョウチンアンコウの口の中で、素に戻った小魚の気持ちを知るタケシ。
ママらしき女性は、タケシの顔を確認しつつも、笑顔で明るくカウンター席に導いた。
「うち、はじめてよね?」
はい…。
「いやーん、嬉しいわ〜。はい、おしぼりぃ~」
はい…。
「ビール?焼酎?それとも愛?」
…
「あらやだ!冗談よぉー
ハハハハハハハァー」
…
『終着駅』は数分でタケシを取り込んで、急速に普段に戻っていった。
一時間後、6席のカウンターと、小さなボックス席が2つという小狭い『終着駅』は、タケシのカラオケでフィーバーしたパチンコのように盛り上がっていた。
イェイイェイイェイイェイイエイーーイ!
タケシがご機嫌なのには理由があった。
ママの他にもう一人いた『遥』と名乗るホステスは、実はタケシが高校時代に教わっていた数学教師だったのである。
新任だった彼女は、タケシの卒業した年に結婚退職したと聞いていたのだが…。
彼女は他の新任教師とはちがって、情熱的ではなかった。
かといってやる気がなかったわけでもなく、奇麗というわけでも奇麗でないと言うわけでもなく。
大きな黒ぶち眼鏡は小顔の彼女をさらに小顔に見せ、男子生徒らが面白がって眼鏡を外すように茶々を入れるのだけど、彼女は口元で少し笑うだけで、眼鏡を外した彼女を見た生徒はいなかった。
彼女はいつも、素顔を黒ぶち眼鏡の奥に隠しているように思えた。
タケシはそんな謎めいた彼女のことがわりと好きで、放課後に、興味のない教科書を持って質問に行ったこともあった。
質問をするたびに、うつむき加減の黒髪の向こうにある顔を見れることが嬉しかった。
声をかけてきたのは、遥の方だった。
色白で細身の彼女は地味な黒のドレスがよく似合って、胸元で銀色に光る小さな貝のネックレスがさらに彼女を色白く、きゃしゃに見せていた。
アンコウに飲まれたばかりの小魚タケシの頭は、フル回転で目の前の奇麗な女性を検索している。
そんなタケシを見て優しく笑う大人の女性『遥』は、元高校の数学教師だと名乗ったのだ。
なるほど、口元の笑みは確かにあの頃のまま。
しかし年をとったとはいえ、高校教師時代の無口な面影とはかけ離れている。
しっかりと据えられた瞳は、昔のままの凛とした勢いの他に、優しさやら憂いやら悲しさやらを、たくさんのガラクタとともに目奥の深い湖に沈めていて。
沈んだたくさんの物々には、水面からの光がゆらゆらと古いミラーボールのように降り注ぎ、苔がはえたものもあれば、まだ新しく光るものもあり。
だけど、タケシに湖の深さなどわかるはずもなく、笑いかける湖面は、ただ魅力的な大人の瞳としか映らなかった。
教師からホステスという変化での再会を、普通は気まずく振る舞いそうなものだが、彼女は明るかった。
タケシは、他の学生の誰もが知らない彼女の素顔を特別に見たような気がして、嬉しくなっていた。
彼女が離婚をして、現在は独り身だと知った他の客のテンションも上がり、『終着駅』はフィーバーしていたのだ。
イェイイェイイェイイェイイエイーーイ!
続くフィーバーの中、彼女の笑顔が一瞬途切れて陰り始めたのは、タケシが自分の努める気象庁のことを、梅雨課のことを話し始めてからだった。

「今年の梅雨入り宣言はですねぇ。実はですねぇ。
ぼかぁー出したんですよぉ!
明日の天気予報も、実は僕次第なんですよぉ」
上司は全然駄目だの、同僚の女は自分のことを可愛いと思っているが実際はそうでもないだの、自分がいるから梅雨課はもってるだの、自分の一声で天気予報が変わるだの…。
慣れないウイスキーも手伝って完全に酔ったタケシは、あることないこと吹いていた。
「山下達雄ですけど」
あなたの上司の名前は?と遥に聞かれたタケシは答えた。
「…そう」
「あれれ、山さんのこと知ってるんですか?」
「…すこしね」
口元と目尻だけで笑った遥を見て、タケシはしゃべり過ぎたことを後悔した。
自分がまだ半人前だということが知れるかと思ったのである。
その後、悪気もなく山さんのことをいろいろ聞いてくるタケシに、彼は元気にしてるの?とだけを聞いて、遥かは「お願いします」とママにマイクを渡した。
どんなに盛り上がったお祭りや恋にも終わりがあるように、今宵の『終着駅』も、完走しかけた線香花火のように、よい余韻に包まれはじめていた。
外に漏れていた少し調子っぱずれな『天城越え』も、この余韻の中で聞くとさながらである。
左手を上げ、目をつむり、こぶしを作り、完全になりきって歌うママ。
それぞれは、それぞれに過去の想い出や進行形の想いを頭に溢れ出させ、グラス焼酎を飲んだり、タバコを吐き出したりしたりしている。
間奏の拍手や「いよっ!」「かぁー、やっぱりいいわ〜」などおはやしも助だって、歌はいよいよ燃え上がる。
タケシは演歌を生で聞くのは初めてで、大さびの「あまぎごえ」のところが「はまぎごえ」に聞こえるなぁと思ったが、ハンカチを目に当てた遥をみて、なんだか自分も目を潤ませた。
盛大な拍手とともに閉店に向かう『終着駅』。
会計は思いのほか安かった。
軽いぼったくりが当たり前の業界としては、タケシは絶好の客だったが、『こいつはまた来る』と踏んだママがおまけしたのだ。
アンコウは餌を吐き出したかのように見えたが、実はそうではなかった。
会計を済ませたタケシは、店の前まで遥に送られた。
雨は上がっていて、遅い夜は初夏のように気持ちよい。
「先生、おれ…」
「もう先生と言うのはやめて」
タケシの右手を両手で包み込み、その手はしっとりと冷たく、底知れぬ湖の潤んだ瞳でタケシを見つめた。
「またいらして」
骨抜きになったタケシは、次の日から『終着駅』に通うことになる。
はぁ、やっぱりこんなとこ一人で来るもんじゃないよ。
神田の大衆居酒屋『赤ちょうちん』は、相変わらずサラリーマンの愚痴で活気づいていて、5席あるうち1席は空き瓶置き場と化している小狭いカウンターで、タケシは片肘をついていた。
隣の男は、これが毎日の楽しみなのだろうか。食べかけのホッケと飲みかけの生ビール。疲れと幸せの混じった顔で野球中継を見ている。
『梅雨入り宣言』を発表し終わった梅雨課は、一段落していた。
飲みに誘った絵美に「用事がある」と断られて、一人でやってきた『赤ちょうちん』だったが、タケシは早々につまらなくなっていた。
一度やってみたかった、大人になった気がしそうな『手酌のビール』も、実際やってみるとつまらないもので、コップの残りを一息で飲み干し、携帯をバタリと閉じて早々に店を出た。
20時前、程よい雨路地を、サラリーマン達が傘を上下に交わしながらすれ違ってゆく。
はぁ、つまらんなぁ。
友達を誘うにも遅すぎるし。
そう思うと増々つまらなくなってきたタケシだったが、行く当てもなく。
帰るか、と駅に向かおうとした。
「あーまーぎぃーーごーえーー…」
雨の間をすり抜けてきた、かすかな調子っぱずれなカラオケの音にタケシは足を止め、振り返った。
細い雨路地の奥に、アヤメ色に光る『終着駅』というスナックの看板がぼーっと浮かんでいる。
そのアヤメ色の看板は、まるで深海のチョウチンアンコウの光の様にうっとりと佇んでいて、気づけば、タケシは催眠術にかかった小魚のようにドアの前まで来ていた。
スナックか…。
学生の頃、アルバイト先の社長に連れられて1度行ったことがあったが、それは楽しくよい思い出だった。しかし、一人で入るとなるとなんだか不安なものである。
財布の中身を確認したタケシは「ちょっとだけ」と決めて、勇気を出して、そろりと『終着駅』のドアを引いた。
カランカラン…
「いらっ…しゃーい!」
チョウチンアンコウの口は閉じられた。

店内は薄暗く、カウンターの中にはママらしき年配の女性と、若いホステス。
カウンター席にはサラリーマン風の年配の男が2人、少し離れてそれぞれ座っていて。それらの視線は一斉にタケシに注がれた。
あぁ、やっぱり来るんじゃなかった。
閉じられたチョウチンアンコウの口の中で、素に戻った小魚の気持ちを知るタケシ。
ママらしき女性は、タケシの顔を確認しつつも、笑顔で明るくカウンター席に導いた。
「うち、はじめてよね?」
はい…。
「いやーん、嬉しいわ〜。はい、おしぼりぃ~」
はい…。
「ビール?焼酎?それとも愛?」
…
「あらやだ!冗談よぉー
ハハハハハハハァー」
…
『終着駅』は数分でタケシを取り込んで、急速に普段に戻っていった。
一時間後、6席のカウンターと、小さなボックス席が2つという小狭い『終着駅』は、タケシのカラオケでフィーバーしたパチンコのように盛り上がっていた。
イェイイェイイェイイェイイエイーーイ!
タケシがご機嫌なのには理由があった。
ママの他にもう一人いた『遥』と名乗るホステスは、実はタケシが高校時代に教わっていた数学教師だったのである。
新任だった彼女は、タケシの卒業した年に結婚退職したと聞いていたのだが…。
彼女は他の新任教師とはちがって、情熱的ではなかった。
かといってやる気がなかったわけでもなく、奇麗というわけでも奇麗でないと言うわけでもなく。
大きな黒ぶち眼鏡は小顔の彼女をさらに小顔に見せ、男子生徒らが面白がって眼鏡を外すように茶々を入れるのだけど、彼女は口元で少し笑うだけで、眼鏡を外した彼女を見た生徒はいなかった。
彼女はいつも、素顔を黒ぶち眼鏡の奥に隠しているように思えた。
タケシはそんな謎めいた彼女のことがわりと好きで、放課後に、興味のない教科書を持って質問に行ったこともあった。
質問をするたびに、うつむき加減の黒髪の向こうにある顔を見れることが嬉しかった。
声をかけてきたのは、遥の方だった。
色白で細身の彼女は地味な黒のドレスがよく似合って、胸元で銀色に光る小さな貝のネックレスがさらに彼女を色白く、きゃしゃに見せていた。
アンコウに飲まれたばかりの小魚タケシの頭は、フル回転で目の前の奇麗な女性を検索している。
そんなタケシを見て優しく笑う大人の女性『遥』は、元高校の数学教師だと名乗ったのだ。
なるほど、口元の笑みは確かにあの頃のまま。
しかし年をとったとはいえ、高校教師時代の無口な面影とはかけ離れている。
しっかりと据えられた瞳は、昔のままの凛とした勢いの他に、優しさやら憂いやら悲しさやらを、たくさんのガラクタとともに目奥の深い湖に沈めていて。
沈んだたくさんの物々には、水面からの光がゆらゆらと古いミラーボールのように降り注ぎ、苔がはえたものもあれば、まだ新しく光るものもあり。
だけど、タケシに湖の深さなどわかるはずもなく、笑いかける湖面は、ただ魅力的な大人の瞳としか映らなかった。
教師からホステスという変化での再会を、普通は気まずく振る舞いそうなものだが、彼女は明るかった。
タケシは、他の学生の誰もが知らない彼女の素顔を特別に見たような気がして、嬉しくなっていた。
彼女が離婚をして、現在は独り身だと知った他の客のテンションも上がり、『終着駅』はフィーバーしていたのだ。
イェイイェイイェイイェイイエイーーイ!
続くフィーバーの中、彼女の笑顔が一瞬途切れて陰り始めたのは、タケシが自分の努める気象庁のことを、梅雨課のことを話し始めてからだった。

「今年の梅雨入り宣言はですねぇ。実はですねぇ。
ぼかぁー出したんですよぉ!
明日の天気予報も、実は僕次第なんですよぉ」
上司は全然駄目だの、同僚の女は自分のことを可愛いと思っているが実際はそうでもないだの、自分がいるから梅雨課はもってるだの、自分の一声で天気予報が変わるだの…。
慣れないウイスキーも手伝って完全に酔ったタケシは、あることないこと吹いていた。
「山下達雄ですけど」
あなたの上司の名前は?と遥に聞かれたタケシは答えた。
「…そう」
「あれれ、山さんのこと知ってるんですか?」
「…すこしね」
口元と目尻だけで笑った遥を見て、タケシはしゃべり過ぎたことを後悔した。
自分がまだ半人前だということが知れるかと思ったのである。
その後、悪気もなく山さんのことをいろいろ聞いてくるタケシに、彼は元気にしてるの?とだけを聞いて、遥かは「お願いします」とママにマイクを渡した。
どんなに盛り上がったお祭りや恋にも終わりがあるように、今宵の『終着駅』も、完走しかけた線香花火のように、よい余韻に包まれはじめていた。
外に漏れていた少し調子っぱずれな『天城越え』も、この余韻の中で聞くとさながらである。
左手を上げ、目をつむり、こぶしを作り、完全になりきって歌うママ。
それぞれは、それぞれに過去の想い出や進行形の想いを頭に溢れ出させ、グラス焼酎を飲んだり、タバコを吐き出したりしたりしている。
間奏の拍手や「いよっ!」「かぁー、やっぱりいいわ〜」などおはやしも助だって、歌はいよいよ燃え上がる。
タケシは演歌を生で聞くのは初めてで、大さびの「あまぎごえ」のところが「はまぎごえ」に聞こえるなぁと思ったが、ハンカチを目に当てた遥をみて、なんだか自分も目を潤ませた。
盛大な拍手とともに閉店に向かう『終着駅』。
会計は思いのほか安かった。
軽いぼったくりが当たり前の業界としては、タケシは絶好の客だったが、『こいつはまた来る』と踏んだママがおまけしたのだ。
アンコウは餌を吐き出したかのように見えたが、実はそうではなかった。
会計を済ませたタケシは、店の前まで遥に送られた。
雨は上がっていて、遅い夜は初夏のように気持ちよい。
「先生、おれ…」
「もう先生と言うのはやめて」
タケシの右手を両手で包み込み、その手はしっとりと冷たく、底知れぬ湖の潤んだ瞳でタケシを見つめた。
「またいらして」
骨抜きになったタケシは、次の日から『終着駅』に通うことになる。
by ariken_novel
| 2008-07-04 18:24