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有田健太郎のミニ小説のコーナーです。


by ariken_novel

かたつむりランデヴー『終着駅は始発駅』(後編)

空の青は、冬の抜けるような澄んだ硬さではなく、大地から空までの間にたくさんの湿った空気やらを立ちこませていて、軟らかく、どちらかと言えば白かった。

晴れとは言え梅雨の切れ間、天気予報課の発表する不快指数も高い日々が続いていた。

梅雨課はその週、梅雨明けの見通しについて他の部署や地方気象台との打ち合わせに追われ、珍しく忙しかった。
そのためタケシがスナック『終着駅』に顔を出したのは、遥と別れて4日後のことだった。

タケシには、なんだか自信と余裕があった。
その自信の源となる確固たる出来事などはなかったのだけど、自分が映る遥のまっすぐな潤んだ瞳を思い返すたびに、その自信は勝手に大きくなっていったのだ。
だから、恋人ができた時のような、まるで何でも笑って許せてしまうような幸せな心持ちだった。

しかし、気になることもあった。
それは、先日から遥と連絡が取れていないということだった。

それに、あの夜、自分の気持ちをはっきりと言葉で伝えることができなかったことを悔いていて。
だから今夜は、どうしても『終着駅』に行かなければならなかった。



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年季を感じさせる木製のドアは重たくきしみ、カラコロと鳴った。

19時を回ったばかりの『終着駅』は、まだ営業しているのかしていないのかも分からない状態で、遥の姿はまだなかった。
しかしママは、まだ暖まりきれてないおしぼりと自家製の漬け物、ビールを用意してくれた。

ママは、連日の暑さをうるさく、面白くしゃべりたてたながらタケシを笑わせ。
新しく仕入れたお酒などを片付けながら準備を終わらせた。

ひと時続いた弾む世間話も、途切れた頃。
タケシは、ビールを口元まで持ってゆきカウンターの奥を見て言った。

「あの…、今日遥さんは休みですか?」

ふうー

ママは、タケシに煙がかからないように少し横を向いて、一気に白い息を吐いた。

「…やっぱり聞いてないのね」

サーバーで自分のビールを注いだママは、再びタケシの前へ戻ってきた。

真面目に向かい合ったママの目は、その小さい中に、たくさんのものを隠しているように見えた。

多くの人達の、昼間にさらりとは決して話せないような場面や物語をたくさん宿していて。
安く信じることが命取りとなる夜の世界で、人と話し、笑いあうことを商売とし。
一人で店を切り盛りしてきた強い女の瞳は、タケシには到底覗き込みえなかった。

早くも結露で滴るコップを肘をついた両手に持ち。
自分の想像していた夢のような世界が、現実の世界に対してどこまでも小さかったのではないかということをタケシは予感した。

「遥ちゃんね。…やめちゃったのよ。

なんだかね、明日からオーストラリアに行くんだって」

…ほら、当たった。

タケシの両手は、コップを置き頭に持ち替えた。

絶望系だらけの大きなため息が店内を埋めた。

「そうそう」とママは、遥から渡してほしいと頼まれていた手紙と小箱をタケシに渡した。

まだ混乱しているタケシは、手紙を開けるしかなかった。

モスグリーンのハガキサイズ程の封筒には、3つに折られた便箋が入っていた。
便箋を取り出すと、ぱあっと遥の香りが広がるようで、紙面に泳ぐきれいな文字達は、細くきゃしゃな彼女の指を連想させた。

その文字達は、きっと、遥の正直な気持ちをそのまま伝達してくれていた。



彼女は、別れた夫『山下達雄』をまだ愛していた。

夢を追い、自ら破局させた結婚生活。
しかしその後、自分のわがままから目を覚ましたときに、彼の愛と自分の本当の気持ちを知ったという。

しかし時は既に遅く。恥をしのんで彼に会おうとしたが、ついに出来なかった。

彼女はその辛さから次の目標を早急に掲げ、彼への気持ちや一連の過去もガラクタとして瞳の湖深くに沈めたという。

忙しい日々が、傷を癒してくれたこと。
しかし実際、時は、表面を薄く覆い隠してはくれるものの、決して消してはくれなかったということ。

再び掲げた夢へ近づいてきた頃に、タケシと出会ったこと。
そんなタケシから彼の名を聞いて、再び気持ちが揺らいだこと。

彼がどんな生活をしているのか、今幸せなのか、再び結婚しているのか…。
それらをタケシから聞き出したくなった自分が嫌になったという。

そんな中、タケシの存在は新緑のようで、その素直さが自分に何の抵抗もなく染み入ってきたということ。

素直に楽しかった事実。好きだと思った事実。甘えたかった事実。だけど、やはり無理だと思った事実。


オーストラリアの民間学校で講師をやりながら、大好きな土地で生活をする。

彼女はやはり、全てを瞳の湖に沈めて夢に向かうと決めたということだった。



素敵な再会をありがとう。

また会う日まで     小向 佐緒里


末にはそう書かれていた。




タケシは、読みながら泣いていた。
泣くまいと思い、さらに泣いてしまった。

ママはティッシュの箱を渡し、気の毒そうにタケシのボトルを出してグラスを作ってくれた。

「遥ちゃんはね、働き始めた時からオーストラリアに行くっていってたのよ。

英会話教室もずっと通っててね。向こうでの仕事探しによく走り回ってたのよ。

ほんとがんばり屋さんだったわ。」

鼻をかんだティッシュが転がりまくっているタケシのテーブルを片付けながら、さらに続けた。

「でもね、タケシ君が来るようになってからあの子ほんとに明るくなったのよ。

きっと、嬉しかったのね」

「慰めは止めてください…

うう…、山さんのやろ〜」

真っ赤な目でようやく落ち着いてきたタケシは、もう一度鼻をかんだ。

そして、小箱を手に取った。

それは先日、タケシが遥にプレゼントしたネックレスの小箱に似ていて、やっぱり奇麗なブルーのリボンが十字形にかかっていた。

「ねえねえタケシ君、それ開けてみようよ!」

小箱の中身の力を借りてタケシを元気づけようと、ママは急かした。

引っ張ればすうっと解けるリボンはさらさらとしていて、開かれた箱にそっとうずくまっていたのは『お天気棒』だった。

車やラジオのアンテナなどに使われる、引っ張れば伸びるステンレスの棒の先に、人差し指だけ出した手のブラスティックが付いている『お天気棒』は、よくテレビのお天気キャスターが気圧配置図などを指すときに使われるものであった。

しかし、このシリアスな場面に置いて、しかも高級そうな小箱から出てきた物としては、明らかに拍子抜けした。

タケシは『お天気棒』を取り出し、それをつつつと伸ばした。

うっ、うっ、うっ…

タケシはまた泣き出してしまった。

ママはタケシの手からそっと拝借した『お天気棒』を手に取って、まじまじと見ていた。

「しかし…なんだかね。

他になんか…よいものはなかったのかねぇ」

「何言ってんですかぁ!

これは気象予報士にとって命みたいなもんなんですよ」

ママは、ふーんと言わんばかりに、伸ばした『お天気棒』の先の人差し指でタケシの頭をつつきはじめた。

「タケシ君、元気だしなぁ〜」

つんつんつんつん…

「おーい。たーけーしーくぅーん」

つんつんつんつん…

「もぉー、止めてくださいよー」

つんつんつんつん…

「もお!うるさいっ!

ちくしょ〜、ぜってー山さんより凄くなってやる」

再び泣き出すタケシをみて、やり過ぎた『お天気棒』をばつの悪そうにしまうママであった。

グラスの氷がつるんと滑り、カラランと氷達が居直した。


そのままタケシは飲み始めた。

しかし、どれだけ飲んでも酔えないのである。
ずしーんと思い気持ちは、お酒で尚重たくなるばかり。

「ねえママさん、ママさんは激しい失恋ってしたことある?」

重みに耐えきれないタケシは、思わず聞いてしまった。

他の客とタケシを行き来していたママの動きは止まり、ゆっくりとタケシの方を向いた。
そのまま首を少しかしげ、「えっ?」と言う彼女に、タケシは思わず「ごめんなさい」と言ってしまった。

まだ早い時間ではあったが、タケシは会計を頼んだ。
しかしママは、帰ろうとするタケシを引き止め、もう一杯だけとグラスを作った。
そして、自分でカラオケの番号を入れ始めた。

ふお〜と始まったのは、やっぱり『天城越え』だった。

今日はいいよ〜。タケシは思ったが熱唱はもう始まってしまっていた。

しかし、よくよく聞いてみると熱い歌詞だ。

ママは、この曲にどんな思い入れがあるのだろう。

遥はどんな気持ちで、毎晩この歌を聞いていたのだろう。

彼女は今頃、何を考えているのだろう。

どうして山さんにもう一度、会いに行かなかったのだろう。

僕は、山さんを紛らわすだけのピエロだったのだろうか。

ほたほた、気づけばタケシはまた泣き出していた。


「タケシ君、どうしてこの店が『終着駅』って言う名前なのか分かる?」

歌い終えたママは、タバコに火を付けて大きくふかした。

首を振るタケシ。

「夢や恋の終わりは終着駅のように思えるけどね、実は、終着駅は始発駅なのよ」

タケシは、うるうる赤くなった目でママを見つめた。
しかし勢いで感動してはみたものの、いまいち意味が分かんないと思った。


その日の会計は、普通だった。

こいつはもう来ないと読んだママは、軽くぼったくろうと思ったのだが、タケシをかわいいと思う気持ちと相まって、結局普通になったのだ。


店を出ると蒸すような空気はそのままだったが、気温が低い分いくらかは涼しく感じた。

細い路地はでこぼこに続いていて、「はぁ」と振り返った闇の中にはやっぱり『終着駅』の看板がぼうっと佇んでいた。

しかし、そのアヤメ色に放たれる光に、もう怪しさは感じなかった。





次の日、地上ではさほど感じ得ない風が屋上では心地よく流れていた。
その風には、お昼の休戦タイムの平和な街の雑踏も混じっていて、空には、箇所箇所でもう夏雲がそびえ始めていた。

大きな背伸びを終えたタケシの横に、山さんがやってきた。

「いい天気だな」

そう言うと風下に回り、タバコに火をつけた。

「あれ、今日は釣り堀じゃないんですね」

タケシは手すりを背中にし、両腕かけた。

「知ってたかタケシ、釣りは究極、たどり着く所は『ヘラブナ』だそうだ」

「知りませんよそんなと」タケシは笑った。

「おれはどうせたどり着くなら、最初から『ヘラブナ』やろうと思ってな。

だけどこれが奥が深いんだ〜。

こうやってな、棒のウキがクッって引いた瞬間に、ガッ!ってな。
だけど、ウキが引いたからってすぐに上げたってダメなんだ、ここが天気予報と似てるんだよ。

お前もやってみるか?今度連れてくぞ、飯田橋」

「フっ、おれはいいですよ。どうせ山さんすぐ飽きるしな〜」

「何言ってんだ、じっちゃん達にも筋がいいって言われてんだぞ」

どうでもいい会話と笑い声は、風に流され、再び地上の雑踏へとフィードバックされてゆく。

こうやっていると、山さんと話をしたのは久しぶりなような気がした。


夏雲の山は、さらに中からモクモクと溢れ出し刻々と増殖している。

タケシは、ふと、夏雲の隙間に飛行機を見つけた。

音もなく横切ってゆく飛行機は、まるで透明な定規で引いているようにその軌跡をブレることなく伸ばしていて。
想像もつかない距離がその巨体を限りなく小さく見せ、そのくせある所で図体以上にキラリと光って、そのまま雲の山脈の向こうへふっと消えた。

タケシは大きく息を吸い込んで、身体にまかせてゆっくり吐き出した。

「山さん…、結婚っていいもんですかね?」

「んん?」

突拍子もない質問に、山さんは少し驚いた様だった。

「結婚?

…結婚ねぇ…」

溜め込んだ煙を大きく吐き出した山さんを見て、タケシは笑った。

「遥さんが…、あっそっか。えっと…

小向佐緒里さんが、山さんによろしくって言ってましたよ」

そう言うとタケシは塔屋に向かって歩き始めた。

「おい、タケシ!…ちょ…」

ずんずん歩いてゆくタケシは、振り返って後ろ向きに歩きながら声を大にした。

「佐緒里さん、夢に向かってがんばってますよ!」

「…」

そう言うと、もう一度夏雲の谷間を見て、山さんに手を振って屋上の扉を閉めた。


山さんは、記憶の旅に出かけた。
いつの間にか付け根まで達して、火の消えたタバコを持ちながら。



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パソコンで旅行の激安プランを調べていた絵美のデスクに、横からすっとタリーズのアイスカフェラテが置かれた。

「はい。絵美さんはこれでしょう?」

「おー、よく分かってるじゃない!ありがと」

「ねえ絵美さん、今日『赤ちょうちん』行きましょうよ!」

「あら、タケシ君は、お忙しいんじゃなくって?
それに、私なんかでよくって?」

上目遣いに笑みを隠し込めて見上げる絵美は、気づかずして瞬時にかわいい顔をする。

「何言ってるんですか!僕はいつだって絵美さんだけですよ!」

「でも私、今日お金がなぁ〜」

「何言ってるんですか!そんなの僕が全部おごりますよ!」

少し大人になったタケシであった。



庁舎のエレベータを降り、大きな自動扉が開いて、大理石の階段を早足に下りる。
雑踏の中歩道を歩き始めたタケシは、ビルに切り取られて伸びる長方形の空を見上げた。

夏雲も、そのさらに上層の雲も。
ここからも、遠い国からも見える同じ星も。
南西から新たに進出してきた、雨期後半の巨大な低気圧に阻み隠されそうになっている。

風とともに勢いよく地下鉄の階段を駆け下りてゆくタケシは、雨のにおいを感じた。




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                      この物語はフィクションです
by ariken_novel | 2008-08-03 20:18